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BATMAN : WHITE KNIGHT (DC, 2017 - )


Batman: White Knight

 それはいつも通りの追いかけっこになる筈だった。
 いや、実際いつも通りだったのだ。
 彼らのワルツははるか以前にステップを踏み外してステージから転落していた。

 この日も Batman Joker の行方を追い、とある薬品工場にやって来ていた。しかし追い詰めた道化の王子の挑発を真に受けてしまった彼は、相手を半死半生になるまで叩きのめすと、その白い歯が覗く口の中に大量の錠剤を流し込む。
 後日その様子を録画した動画が流出すると、 Batman のなりふり構わぬ行動とそれを見てみぬ振りするゴッサム警察に対してメディアの一斉バッシングが始まる。
 一方、病院で目を覚ましたジョーカーは薬の作用で狂気に陥る前の人格、 Jack Napier としての意識を取り戻していた。やがて天才的な頭脳で自由の身を勝ち取った彼は、闇の騎士の存在により歪められてしまったゴッサムの街を立て直すため、自ら”白き騎士”となることを決意する。
 そんなネイピアの前に現れたのは2人の Harley Quinn だった。


 『 JOE THE BARBARIAN 』『 PUNK ROCK JESUS 』などの作品で知られるアーティスト Sean Murphy がカラーの Matt Hollingsworth らと共に送るミニシリーズ。正気を取り戻した Joker が社会的に Batman を追い詰めていく。
 闇の騎士と道化の王子の立場が逆転した内容そのものもさることながら、2人の Harley Quinn の登場やある重要人物の死などが大きな話題を呼んだ。ただし、今回の物語はパラレルワールド設定なので Joker の Jack Napier という本名含め、設定や事実のほとんどは正史の DC ユニバースとは異なる。


BATMAN WHITE KNIGHT #5 (OF 8)


 以前、あるオタク系評論家がBatman の戦う理由について『大富豪である Bruce Wayne が自らの財力を社会に還元しようとする欧米のノブレス・オブリージュ(持てる者の責任)思想に基づいている』と発言しているのを目にしたことがある。
 かなり的はずれな意見であると言わざるを得ない。

 何故ならこの考えは Bruce が幼い頃に両親を殺害されているという”原点”を完全に度外視しているからだ。
 あるいは Superman Fantastic Four ならノブレス・オブリージュの考えも適用可能かもしれない。だが Bruce Wayne=Batman に限って言えば、彼の活動はそんなぼんやりした責任感から来るものではなく、特定の犯罪に対する明白なリアクションとして成立している。
 財力についてもそれはそのリアクションを起こすためのツールに過ぎず、動機ではない。 Bruce が貧しければ、それでも彼は何とか犯罪に立ち向かう方法を探しただろう。

 前後の文脈から判断するにおそらくこの識者は先に「欧米特有のノブレス・オブリージュ思想」ということについて言及したくて、それに当てはまるよう Batman を引き合いに出したものと思われる。そうでもなければこれほど的外れなことも言うまい。


 また、 Batman が戦う理由についてはもう1つ広く認知されている考え方がある。
 ”狂気”である。
  Batman のことを「夜な夜なコウモリのコスチュームを身に着けて犯罪者を殴る変態」と揶揄する発言に出くわしたことがある人も多い筈だ。

 だが果たして Bruce Wayne は本当に狂っているのだろうか?
 1)彼は目の前で大切な人間を2人も殺されており、犯罪を強く憎んでいる。
 2)犯罪を取り締まる筈の警察は腐敗し切っており、まともに機能していない。
 3)彼には状況を改善する力、あるいは力を会得する手段がある。
 これだけの条件が揃っていれば(ある程度の意志力は要されるものの)動機として機能するには十分だ。街中ひいては世界中の犯罪に立ち向かうためコウモリをモチーフとしたスーツを身にまとうことも、たった1人のプロパガンダ戦と考えればやや極端なメソッドではあるが説得力はある。

 それでも彼が狂気に囚われているのだとすれば、それは個人的な被害から生じたリアクションをそっくりそのままあらゆる犯罪に適用すること、両親を殺害した犯人に向けるのと同じ度合いの敵意を全ての犯罪者に向ける点に集約される。

 とどのつまり Batman を狂人呼ばわりする者はそれが超人的な意志の強さであると認識できていないに過ぎないのであり(この”超人的な意志の強さ”を Bruce Wayne に固有の特殊能力として描いたのが Grant Morrison だ)、その指摘は逆説的に醜悪な殺人事件さえ”自分と関係ない”というだけの理由でワイドショーのエンタメとして楽しむ我々自身に突きつけられる。


BATMAN WHITE KNIGHT #7 (OF 8)

 すっかり前置きが長くなってしまったが『 BATMAN : WHITE KNIGHT 』に話を戻そう。
 今回の物語は Joker という Batman 最大の宿敵を排除すると同時に彼を一般社会の代表として描くことで、逆説的に”スーパーヴィラン”という存在を改めて強調する結果となった。
 これは私自身、この間『 SQUADRON SUPREME 』でスーパーヒーローの社会的役割について語った際にすっかり忘れていた要素でもある。

 上で Batman は個人的な敵意をあまねく全ての犯罪者に適用していると言ったが、それはスーパーヴィランの存在を無視した際にのみ言えることであり、 Joker Penguin といった悪党が跋扈する世界ではそう上手くいかない。 Batman が犯罪者にとって恐怖の象徴となったように、このカラフルで表情豊かな連中は Batman の犯罪に対する敵意が集中するシンボルとなり、彼の”ウォー・アゲンスト・クライム(犯罪との戦争)”を大きく妨害する。
 結果としてBatmanがJokerへ集中的に向ける敵意は一般社会の目には”行き過ぎた正義”として映り、本作のような「ヴィジランテ V.S. 世間」という構図を生む土壌となる。


BATMAN WHITE KNIGHT #8 (OF 8)

  Gotham を一枚のポスターとするならば Batman はそれを固定する画鋲であり、 Joker はその紙面にしわを寄せる指だ。しわをなくそうと Batman が画鋲を挿し直したところで Joker という指が外れてしまえば、 Batman 自身がしわを生む存在となる。
 そんなミイラ取りがミイラになってしまったというBatmanの現状を端的に現しているのが本作の#7にある以下の発言だ。

”I'll never be okay. And my hardest struggle has been trying not to affect you.” (#7)

 正気に戻った Joker こと Jack Napier が際立たせたのはまさにこの点であり、上記のような2人の関係を自覚させることこそ今回の一連の騒動を引き起こした「ある人物」の目的だ。
 

 ラストに改善の兆しが窺えることからこの人物の目論見は成功したと考えて良いだろう。 
 ドラマを最後まで破綻させることなくこれほど深い分析を行った Sean Murphy のストーリーテリングもまた然りだ。


 本作で唯一惜しいのは最後まで既存の無法者状態から Batman が抜け出ることができなかったようだが、その点についても希望のあるラストだった。本作には続編もあるというし、そこで更に進化した”システム”としての Batman を見られることに期待したい。


 ……毎度毎度堅苦しい内容の書評でどうも恐縮です。今後少しずつ軽くなっていけたらと思うんで何卒何卒。