VISUAL BULLETS

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『インフィニティ・ウォー』公開に寄せて。カービィとスターリン

 現時点で私はまだ『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を観ていない。
 なのでレビューでも求めてこのブログを訪れた人には申し訳ないが、今ここで私が映画について述べられることは何もない。というか私にとってここはコミックを語る場所なので、実はまだレビューを書くかどうかも決めていない。

 しかし、今日はMCU10年の集大成ともいうべき作品のお披露目の日。謂わばハレの日だ。
 にも関わらず今日のレビューはMCUとはほとんど関わりのない作品だったし、これではまるで無視しているかのようで何だか気まずい。
 そこで映画について何か語ろうかと思ったが、私が知っているのはあくまでコミックのマーベルであって、ぶっちゃけMCUに関してはカジュアルな観客の1人に過ぎない。専門家ぶったところで大して何か書ける自信はない。

 なので苦し紛れに今回の映画、ひいてはMCU全体に大きな影響を与えた2人の人物について語ってみることにする。
 
 その2人とは、ジャック・カービィとジム・スターリンだ。


 彼らに関してはこのブログでも幾度となく取り上げているし、そもそも業界の大御所中の大御所なので略歴だの代表作だのといったくどくどした説明は省かせて貰う。気になる人はググるなり作品を読むなりしてくれれば良い。

 ここでは特にこの2人の間で行われたバトンの受け渡しについて語ろうと思う。



ジャック・カービィとスーパーヒーロー


Avengers (1963-1996) #4

 スタン・リーと共にファンタスティック・フォーやアベンジャーズなど数多くのスーパーヒーローを生み出した人物として知られるジャック・カービィだが、私は彼をスーパーヒーロー作家と呼ぶのには抵抗がある。

 何故か。

 彼がマーベルで生み出したキャラクターの多くはスーパーマンやバットマンのような「悪人退治を通した社会の是正」が目的の”ヴィジランテ”とは根本から異なるからだ。

 ミスター・ファンタスティックは科学者だし、ソーは神だ。ハルクがヒーローよりモンスターに近いのは言うまでもない。
 彼らは上のDCヒーロー達のように積極的に犯罪を追いかけはせず、むしろ何か別の冒険を行っている最中に降り掛かってきた火の粉を払うように事件と衝突する傾向がある(ただしアベンジャーズに関してはDCのジャスティス・リーグの対抗馬として始まった経緯もあってかそこそこ犯罪の芽を探したりする)。
 
 こういった彼らの冒険者的性格は、多忙なスタン・リーが徐々に身を引き、カービィが物語の主導権を握るようになると顕著になって現れるようになる。FFはネガティブ・ゾーンという未知の世界へ旅立ち、ソーにとってアズガルドの存在感はみるみる増した。
 そこで読者を魅了したのはヒーローの勇姿ではなく、SF的なセンス・オブ・ワンダーだったのである。

 カービィにとって”スーパーヒーロー”とは単に与えられた土壌に過ぎず、そこで彼が描きたかったものはSFでありファンタジーであった。

 そして彼の創造性はやがて”神話”という形へ収束するようになる。
 


カービィ神話の失敗


 徐々にスタン・リーらの介入に不満を抱くようになったカービィはマーベルを去り、ライバル社のDCのドアを叩く。
 そこで誰にも束縛されない自由を得た彼が生み出したニュー・ゴッズ(新しき神)の物語『フォース・ワールド』サーガは、かつて彼がマーベルで描ききれなかったアズガルド神話の再構築であり、その続編ともいうべき物語だった(実際、FOREVER PEOPLE #5 にはソーの兜などアズガルドを連想させるアイテムが瓦礫の中に散らばった遺跡が登場する)。


New Gods by Jack Kirby

 

 だがカービィの野心的で独創的なアイデアは時代を先取りし過ぎてた。彼の作品群は売上が芳しくないとの理由から次々と打ち切られ、カービィはニュー・ゴッズ神話の完成を見ないままDCを後にした。


 再びマーベルに戻った彼は三度神話の創生に挑戦しようと『エターナルズ』を世に送り出したが、これもわずか20冊という短さで打ち切りの憂き目にあった。

 カービィの現代に神話を蘇らせようという試みはこれをもって失敗に終わったかのように思われた。



ジャック・カービィとジム・スターリン


 ジム・スターリンがマーベルへやって来たのは1972年。ジャック・カービィやスティーブ・ディッコによるシルバーエイジのコミックを読んで育った彼は、ファンが高じてクリエイターに転じた初めての世代の人間だった。

 アーティストとして業界入りした彼は間もなくライターも務めるようになるとすぐさま宇宙へ目を向けた。 そこはかつてカービィがファンタスティック・フォーやソーの中で開拓した場所であり、だが当時のマーベルはここを半ば持て余していた。

 スターリンはこの広大な場所の水先案内人として1人のキャラクターを選んだ。

 サノスである。


Infinity Gauntlet #4

 サノスのモデルがニュー・ゴッズのダークサイドであることはよく知られている(当初はメトロンをモデルにする予定だったが編集の意向でダークサイドになったとか)。
 しかしスターリンは単にマーベルにダークサイドを引っ張ってくるだけではなく、そこにタナトス(死への憧憬)という性質を加えた。

 カービィの神話は前衛的過ぎたことが1つの敗因だった。未知の光景によって乖離してしまった読者の心を再び引き戻すにはカービィ的なメロドラマでは最早通用しなくなっていたのだ。

 そこでスターリンはマーベルの宇宙で神話を構築するにあたり、もっと現代的な精神医学を注入することでこれに対応した。
 破滅を体現するサノス(タナトス)。彼が恋をするデス。それに弟のエロス…こうした現代心理学は彼らわかりやすい存在にすると同時にどこか冷たい神性も付与した。

 またスターリンは神だけでなく、人間など彼らに対峙する者達にもヒロイズムという工夫を施した。
 サノスに立ち向かうキャプテン・マーベルやシルバー・サーファーといった者達はスーパーヒーローらしい勇猛果敢な精神の持ち主として描かれた。それはまさにカービィが忘れかけていた、読者の求めるヒーローの姿であった。


 そして、こうした現代心理学とヒロイズムを両輪として構築してきたスターリンがその物語の集大成として発表したのが『インフィニティ・ガントレット』及びその続編シリーズである。

 これをもってカービィの生み出したSFファンタジーとしてのマーベル・ユニバースは、スターリンの手により神話として1つの完成を見たのである。



終わりに

 当たり前のことだが、これでめでたしめでたしとはいかない。
 カービィの神話観とスターリンの神話観では同じマーベルの世界観といえどだいぶ違いがあるし、第一マーベル・ユニバースは今現在も歴史を積み重ねている。

 だが急に思いついて書き始めた突貫工事みたいなこのエッセイでそはろそろ墓穴を掘りそうなので(というか多分もう掘ってる)、ひとまずここで筆を置くこととする。
  
 カービィ神話の先駆けであるシルバー・サーファーのことやDCで彼の神話を引き継いだグラント・モリソンのこと、それに何より現在のマーベルへの影響など、今回語りきれなかったことはまた別の機会に語ろうと思う。

 カービィからスターリンへと渡されたバトンは今日、あらたにMCUへ渡された。


Marvel's Avengers: Infinity War Prelude (2018) #1 (of 2)

 『インフィニティ・ウォー』を観に行く際はこのことを心に留めておこうと思う。